なまけものーと。

なまけもので、ダメダメな私が生きていくために、つらつらと綴るブログです。今のところ、ただただ生きているだけです。※本ブログはアフィリエイトを利用しています。

暴力に抗うには投票しかない

朝方に文章をワーッと思いついて、かなり久しぶりのブログを更新しようかと書いていた。

 

まさかの事態となり、世の中はセンセーショナルにこれからもしばらくは事件の報道が続くと思う。


事件だけでもショックだが、その報道を考えるだけで先回りしてぐったりしてしまう。

ようやく、日付が変わるころにテレビをつけ情報を少し知ることができた。

その短時間だけでも、かなり異様な光景をまるで経験したような気持ちに陥る。

 

どんな思いで起こした事件かは分からない。
どんな意思のもとであったとしても、力によって自分の思い通りに事を動かそうというのは間違っている。


自分の中の正義やたとえ崇高なものと信じるものであっても、誰かの権利や自由を、そして未来を奪うことはあってはならない。


私たちには、平穏に請願する権利がある。

意思表示は他でもできるはずだから。

 

社会の不平等や鬱屈した空気に声を上げるのは、こんなやり方ではない。

 

どんな思いでも力では解決しない

ひどく落ち込むのは、色んなものを吹き飛ばし、自分だけでなく他の人の権利さえも軽々しく扱ったこと。

 

生きること、相手も生きていること、どうしようもない現実がそこにある。
軋轢や衝突もある。

 

けれど、生きている限りにおいて、どんな形態であれ、説明を聞き、話をするという、相互に意思の表示をするということが可能だったはずだ。

 

だから、こんなやり方は、どうしたって間違っている。

 

これに異を唱え、声を上げる方法として、選挙にいかねばならない。
今だからこそ、意思表示には投票しかない。

改めて強くそう思う。

 

利用されないために、声を上げ続けることをやめない

全てがセンセーショナルに報道されることで、心配なのは心がとても動揺してしまうこと。

これを利用していく向きが出るだろう、ということをすごく懸念する。

かわいそう、ひどい、という言葉が気持ちの一つずつが利用されることが、すぐに鮮明に思い浮かんでしまう。

 

この大変な事態に私たちができるのは、正々堂々と意見を伝え続けること。

それしかない。

 

イギリスの首相を見て、日本の政治を思う

以下は朝(7/8)に書いたものです。
特に思いの変更はないけれど、少し状況が違ったのでこれより上を追記しました。

 

イギリスの首相が辞任するというニュースを横目に見やりながら、あぁここは民主主義がまだ生きているなと確認した。


そんなこととか、

それくらい許してやりなよとか、

いつまでやってるのとか、

そんな日本でならフツーに聞かれそうな言葉をさらっとすり抜けながら、

調査がされ、信任という仲間内の急ごしらえの盾をしっかり倒しながら。

 

で、こちらでも辞める人は謝罪もなく『途中でこの仕事を下りるのがどれだけ心残りか…』みたいなことを平気でのたまっていて、「しらんがな」という言葉が海を隔てた私の口からも瞬時に出てしまった。
どこの為政者たちも変わりませんな。という思いに悲しいかな確証をもってしまい書いています。

 

中立なんてできるもの?

私は中立だという人を、信用できない。

私の中で、その気持ちは年々、どんどんと強まっている感じがする。

 

だいたい、中立ってなんだろう?
真ん中って?どちらにもつかないって?
傲慢な気がしてしまう。
どっちもわかってて(分かりきってる前提で)、あえてということをよく言う気がするから。

 

政治的あるいは社会性のあることに、左右という話では、どちらもつきたくないから、どちらでもないという話がよくある。


でも、人は元来、偏っているもの。
中立だなんておこがましい気がする。

 

特に左右の話だと、どちらでもない…けど、っていう枕詞につくのは大概、冷笑系
現状を黙認し、そこでの困り事やそれについて声をあげる人を嘲笑う。

下に見る。でもさ…で答えるのがお約束。


それは、そのままで良いよとお墨付きを与えること。
変わらないことを推すこと。
小さな声を冷遇すること。

恵まれた自分の周囲からそのまま続けと、高みの見物をすること。

 

だから、冷笑系は極の人よりも厄介だと思うし、嫌だ。

 

多くの問題は、二項対立ではないとは思う。

 

分かりやすさは実は怖い

けれど、簡略化すること、矮小化すること、分かりやすく、見やすく、することが世の中では求められる。
特に政治や社会問題についてはこれが強いと思う。

 

わからなさや、スッキリしないこと、終わりが見えないこと、には大概付きまとう。

 

そこには、誰かによって分けられたもの、誰かによってまとめられたもの、にはこぼれ落ちるものが沢山ある。


そして、何をピックアップして何をしないのか、そこには思惑が入り込む。
どれをどんな言葉でまとめるかにも、誘導がある。


それ本当??よりも分かりやすさ、言い切ること、が持ち上げられることに危機感があるのは、そんな理由。

 

分かりやすい本、は読みたくなる。読んだら知った気にもなる。
分かりやすい理論、は飛び付きたくなる。理解したと思うと、少し尊大な気持ちにもなる。

 

誰かが分かりやすくまとめてくれると、それに賛成や反対をすると、楽だ。

考えることを少し休める。あるいは、やめることができるから。

判断(すると思っていること)が、かなり容易になる。

 

選挙の前は、特にそんな分かりやすいこと、きれいな言葉、断言すること、が増える。
本当は中身がなかったり、実質と違ったり、出来もしないことだったりする。

 

信じることは楽かもしれない。疑うことよりも。


疑うこと、決めても注視すること、信じきらないこと、それを続けることは疲れる。

けれどその大変さが民主主義なのかもしれないと思う。

 

面倒で、ややこしくて、いつもどこか不完全。

崩れやすくて、対立することがベースにあるから、いつも大変さが伴う。

 

けれども、意見をいうことを、意見を持つことを、そしてそれをどこかに言えることを守るため。
このやっかいな民主主義を当事者として見守りたい。
そう思う。

 

テイラースウィフトに学ぶ選択

テイラー・スウィフトが以前、選挙の際には女性候補を選んでいるという発言をしていた。
これを聞いたとき、私は違和感をおぼえた。


それは、それで選んでいいの?

もっと大事なことがあっても曲げるの?って思ったから。

 

けれど、それが今の私には間違いだったと思える。

 

現代女性の憧れ!「強くてしなやかな女性」を代表するテイラー・スウィフトの、初の政治的発言の背景 - テイラー・スウィフト

 

日本とアメリカ(州にもよる)とは女性議員の数が違うし、もちろんその前提である女性の候補者の数も違う。

 

テイラーの言葉には、政策が似通ってたらという文言があったかもしれない。

近年の人権侵害や混乱で、その思いが揺らいだという話だった。

 

つまり、女性であっても、ひどい政策に賛成しそれを是正しない態度を示している人には入れられないというもの。

 

これは、かなり示唆に富んだ選択の話だったと今しみじみと思う。

 

翻って日本の場合、女性議員はかなり少ない。
候補者もまた少ない。

 


クォーター性やパリテ法などの話もある中で、優秀さや適任かどうかを性別で区切るのはどうかという話にすぐなる。

反対する人からは必ず出る話。

 

けれど、ベースを考えると優秀かどうかは性別に関わらない。


また、男性がそれだけ優秀だから議員が多いのではない

 

昔から、女性がその場から排除されてきたからだ。
結婚、出産、子育て、様々な面でこれらが障壁になった。


女性は黙っていることが良しとされた。

その場に立つ、立ち続けるということが、いかに難しいか。ということに尽きる。

 

当選した人がみな優秀だということでないことは、問題の数々を見れば明らかだろう。
名があることが、権力になり、それが固定化してしまう。

 

選べるという当たり前を最大限に生かす

選挙では、選べることが重要だ。
候補者に賛成反対よりも、もっともっと前の段階の選べること、

選択肢があること、よりマシな方を消去法でも選べること。

が大切だと強く思う。

 

二票入れられる参議院選挙では、比例代表の票は政党の名簿に関わらず候補者名を書いた場合には、その人の票に必ずなる、非拘束名簿式


それはつまり、よく分からないからと党に入れても、党が通らせたい順に割り当てられる方法よりもずっと、純粋に票が反映されるということ

 

自民党はそれに対抗するため、特定枠を使ったけれど、これは選挙運動が出来ないという、何の主張もせず、何のために選挙に出るかもはや分からない候補というひどい方策で、この真逆の意識が横たわっている。

 

今回、この比例代表について初めて深く考えた。

それはそんな記事をたまたま見たから余計に。

www.tokyo-np.co.jp

すこし軽いかな?とも思うものの、こちらも分かりやすい。

news.goo.ne.jp

入れた人の票になるから、不均衡な男女比の中で政党に入れるなら、女性に入れようという考えがものすごくしっくりきた。

 

選挙区には女性候補がいなくとも、これなら必ず入るのだ。
これからは、プチ?テイラー流で。私もいこうと決めた。

 

このやり方は、LGBTQの当事者や、障がいをもった候補者、他のマイノリティと言われる候補者にだって適用できそう。

 

争点はそれぞれだけれど、女性に入れるのは、一番わかりやすい不均衡がそこにあるから。

大きすぎる格差がそこにはある。

 

無視される、または存在すら認められない問題が対応されるには、この格差すら放置される状況では無理と言っても過言ではない。

 

消された声を届けるには、まずここから。

 

大きな声に騙されないために

きれいな言葉、大きすぎる主語には警戒する。

大きな言葉に騙されず、潰されず、私は私の決断をちゃんと示したいと思う。

 

小さくて消え入りそうでも、無ではないはずと思いながら。


投票の価値が保たれている地域との差が2倍から3倍になりました~なぞとものすごく軽視されながらも。

 

選べることは、本当に当たり前にすごいことだから。

 

それが出来ない誰かに、早くその権利が手に届くようにと願いながら。

 

いのちが大切だと、重みに違いはないと、高齢者か若者か選ばせることでもないと、何の前置きも例外もつけずに差別反対と当たり前に言えるように。

 

平気でみんなが生きながらえるように。

 

毎回絶望するけれど、それでも意見をこれからも言えるようにしたいから、暑いけれど面倒だけれど、選挙に行きます。

 

それが私の争点です。