どんなに絶望しても私が投票に行く理由
新しい総裁によると、31日の衆議院選挙は未来選択選挙だそうです。
そんなことは毎回だよと思います。
前の、仕事をする内閣もそうです。じゃあ今まではなんだったのか。
当たり前のことばかりが、まるで新しきスローガンのように歩きます。
- 未来選択とは何ざんしょ?
- 選挙以外もあるけれど
- 無効票と白票の意味
- 選挙とは選べること
- うんざりしても投票する理由
- どんだけ~
- 改革ってなんだ?
- ポピュリズムが教えてくれること
- 反面教師を忘れない
- 投票しようが言えるまで
- 3.5%の底力
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未来選択とは何ざんしょ?
あと、未来選択とは過去を見ないことではありません。
未来は過去に立たねば、存在しないから。
前だけを見る?そんな馬鹿な。
検証、批判、建て直し、修正、全部なければ毎回新品の日本になるのでしょうか。
(そんなゲームのようなことが可能なら、もう少し安心ではありますが)
それまでを見ずに、未来だけに立つことは不可能です。
また、コロナがなかったら…みたいなことを言ったり、コロナが全部悪くしたみたいなことを言ったりもよくしますが、いやいや元から悪かったでしょ?って思います。
それが伝わってなかったのならば、別世界というくらいの感覚の格差があるんでしょうね。。
みんなが一律に大変になったと言う意味では、気づくポイントだったのかもしれないけれど。。
それにしても、どの世を見てきたら、コロナで急におかしくなったと思えるのか、想像力の乏しい私には分かりません。
政権選択は、毎回争われる問題であるはずのことです。本来は。
それが、きっと無理、きっと変わらないと諦めてるのは、いや諦めさせられてるのは、その方が権力者にとって都合が良いから。
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選挙以外もあるけれど
民主主義って、多数決だけではありません。
選挙に行くこと、選挙まで監視してやるぞと圧力をかけること、そして何よりもここにいるよ忘れるなよ!と訴えるのが主だと私は思います。
昨年、ネットで話題になった問題点を元に、各自が判断してそれぞれ議員に請願したことを、不幸の手紙だなんて呼んだトンデモ議員がいたけれど、選挙に限らず請願だって、署名だって、声を届ける手段です。
けれど、一度ドカッと権力と言う名のふっかふかのソファに座ってしまった人にとっては、そんなのかゆくないと思っています(それでその座を揺るがされた経験がほとんどないから)。
だから、その座って元々あなたのものではなく、国民の声を聞いた人のものですよね?まさか終身制って思ってないですよね?
いつもいつまでも、座るつもりなんて冗談ですよね?って伝えるには、選挙が一番堪えるのです。
でも、投票権をもった人の半分くらいしか投票に行かず、どうせ変わらないからこのままで、もういいやと諦める。
けれど、それはドカッと座った人たちは、シメタ!とそれもあんたらの選択でしょと更に更に態度を大きくします。
低い投票率で、かつその中でも第一党となった政党も得票率は非常に低い。
けれども、他よりも多かったということだけで、それが全国民の民意だなんて平気で言ったりします。
そして、棄権は、選択とみなされます。
つまり、信任であるという書き換えを行うのです。
悔しいけれど、投票率なんてどうでも良いって訳です。
保身のためには不要だから。
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無効票と白票の意味
ここでよく話に上るのは、無効票の話。
(最近というかわりと長い間、話に上ること自体がずっと政治不信が続いている証左ですが…)
無効票は、存在する政党や候補者として見なされなかったもの。
自分の名前を書いたり、芸能人の名前を書いたり、絵をかいたり…などなど。
間違えて書くと、惜しければ入れてくれたり、似た候補者が二人いたりしたら等分にして入れてくれますが、間違えすぎていたら、無効です。
また、入れる人がいないからと、何も書かないで票を投じる白票ですが、今の政治への抗議だ!と白票を入れる方もいらっしゃると思います。
無効票は有効票とは別に換算され、またその中で無効票の中にどれだけ白票があったかという率が別に計算されることになっています。
だから意味があると言えなくもありません。
が、しかしです。
結局は自分が勝つか負けるかの方が優先されるのです。
少なくとも、投票率、白票率など、そこまで誠意をもって見てくれる人ならば、だいたい権力の椅子に座り続けようとはしないでしょう。
だから、抗議は有効票で入れなければ意味がなくなってしまうのです。
せっかく行くのです。だからこそ、意味のある一票を。
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選挙とは選べること
私自身、今まで以上に関心が持てず、これほど行きたくないと思う選挙はありませんでした。
総裁変わりましたー選挙しまーす。って、何を見て信任を判断するのか分かりません。
閣僚?誰ですか?ってレベルではなく、総理?誰ですか?のレベルなんだから。
悪夢のようなならば、全然良いじゃないかと。夢はさめるんだから。
でも、今も続いているのは起きることも許されない夢、いや地獄ではないのかと思っています。ずっと。
野合?結構!それしか批判できないなら、その選択すら提示できないのなら、いかに国民に不誠実かを地で行くようなものです。
そんな自分たちは、独立独歩なんでしょうか。
選択肢が増える。私は、大いに歓迎です。
だってそもそも、選挙って、選べることではないかと強く思うからです。
それを声として公に届けられることではないか、と。
まるで無投票みたいに、絵に描いた餅みたいに、選択制を盾に権利をぶら下げて置く様なものは、権利ではありません。
別に紙に書いて箱に入れたい訳じゃない。
別にポスターを見て顔がましだとか、胡散臭いとかで決めるかと賭けに出たい訳じゃない。
変わるかもしれない、届くかもしれない、それを思いながら、選びたいのです。
先日台湾の話の記事を読んで、ハタとしました。忘れていました。
(寄稿)珍しい日本の「一党優位」 不祥事・失政で政権交代、8年おきの台湾 李琴峰:朝日新聞デジタル
アメリカですら、イギリスですら、安定みたいな、大人ですよみたいな顔をしている国ですら、普通に政権は変わっています。
割りと頻繁に。
それが日本はどうでしょう。
独裁政治もある専制政治と見紛うような不変ぶりでした。
総理が変わっても、一党支配は変わらず。
訳が分からないお家騒動だけで済まされて、国民には何の恩恵もないままでした。
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うんざりしても投票する理由
選挙ってなんだ。と思っても仕方ない。
それが、変わりました。
民主党政権になったから。
問題が無かったわけではないけれど、あれダメだったから、と元に戻す意味も分からないのです。
だって問題がもっと山積みにしてたのは、政権変わる前からですよね?っていう事実。
私はあの時思いました。
本当に変わるのだと驚きでした。
大袈裟だけど、生きてるうちにこういう選択肢を見れるのかと。
私よりも先輩たちは、きっと信じられなかったはずです。
変わらないと諦めながら今まで投票日を迎えてた筈だから。
あの体験から、すぐに戻されたことは諦めを強くさせられたけれど、それでもあの経験はあって良かったなと思っています。
変わるかもしれないと気にしながら政治を見ることが、不信感には一番の薬ではないでしょうか。
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どんだけ~
頻繁に変わるのは良くない、問題を継続的に審議できないとか、制度設計が変わってしまって混乱が起きるとか、言う人がいます。
政権が変わるときアメリカでは、以前はごっそり周りの職員も変わっていたようです。
それは大変なことだと思います。
けれど、何にも受け継がれずまっさらになることはありません。
いやむしろあってはいけない。
文書が残され、問題が検証され続けなければ本来はダメなはずです。
未来への遺産として。
けれど、周りが大変だから政権交代はね…なんて言うのはめちゃくちゃでしかありません。
誰も信じてない感じでしょ?この方が。
職員の人大変ですよねって、私たちからの忖度は必要ないはずです。
いやどこに気を遣っているんだって話で、それよりも自分達の生活は、未来は大事じゃないの?って。
政権が変わっても、問題は筒がなく受け継がれ、より必要な選択をして変わっていくのは当然の時代の進度ではないでしょうか。
それを止まるから良くないって、どんだけーと思います。
むしろなんでも忘れる政治家よりも、データを残すことに注力していればそんな心配もせずに済むでしょう。
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改革ってなんだ?
また、変わることは改革だとイコールで思われるようですが、どなたかのスローガンではないが、『ぶっ壊す』というのは後は知らないよというのでしかありませんでした。
立つ鳥が後をグッチャグッチャにして問題も大きくして捨てていったのは、改革だったのか。と未だに思います。
改革だと強く言う人も私は信じられません。
だいたい透けて見えるのは、保身だから。
そして、既得権益だと声高に言う人が、一番の受益者だと何時になれば気づくのかと思うのです。もうその手は古いよって。
改革って、多くの平均やそれ以下の人々の暮らしをこれ以上苦しめることでしょうか。
オリンピック以外何も無しと言わんばかりに他の問題をすべて消し去ろうとしたり、五輪の次は総裁選だとまるで国民の関心事はそれしかないとばかりに、ずっとその内紛を垂れ流していることも咎めることはない。
はたまた、文書を改竄し、必要なデータを破棄させ、嘘を嘘で固めるなど、どう転んでも正とは認められないことを本気でただすこともない。
それを厳しく問うことでもなく、そうした問題を議論しようとしたからコロナ対策が遅れたと罵ることが、改革なのでしょうか。
公務員の賃金だけ削り、無駄だ無駄だと叫んだ医療関連がこれほど苦境にたたされることになったのに、それすら忘れたふりをする。
これが改革なのでしょうか。
医療関係者への人件費や財源を捨ててきたのに、困ったらそれを寄付で補なうという、おためごかし。
これって改革ではなくて欺瞞って言うんじゃないか。
こんな大変なことが起きたのに、まだその道の途中なのに未だに社会福祉への財源を戻そうとはしない。病床も減らす。
無駄を削るという甘い言葉で切り取られたのは、
普通の人々の安全と安心ではなかったのかと。
エッセンシャルワーカーという綺麗事を並べた日はいつの間にか過ぎ去りました。
けれど、本当にその時だけその瞬間だけ目を向けて(そんな振りをして)、あとは元通り。
前と同じように軽く扱う。
それまでも今だって、彼ら彼女らに助けられているのに、感謝の言葉を瞬間的に向けただけ。
わざとらしく、今まで見えてなかったよと言いたいみたいに。
拍手を送っても、飛行機を飛ばしても、給料は上げない。
待遇も変えない。
人間のおこがましさったらない。
経済が大事、with コロナだという言葉を何にでも使うけれど、それ万能薬じゃないよって何度も何度でも思います。
脅しのようにどちらか選べと言ってくるのも、おかしな話です。
人が健全に生きてなきゃ、withもあり得ないはず。
それなのに、ある程度は犠牲にしても仕方ないと言うことは、命の選別でしかない。
こんな最中に、権力闘争だと開き直り、ふつうに笑っている人が信じられないのです。
預かっているのは、自分のプライドに群がった周辺の人の下心ではなくて、市民の命なのだから。
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ポピュリズムが教えてくれること
自己責任を推し進める人たちが、改革と叫べば叫ぶほど、私たちは多様性とは似て非なるものを手にするように思います。
基本的な人権すら、あいつにはどうかな…なんて言い出したり、それを言う人を、そうだそうだと持ち上げ出したりする。
そう言う構図は、ただ簡単にすぐに発信できる技術のせいばかりではなく、それを利用してきた政治によるものが大きいと思います。
最近、世界大戦を軸とした戦前戦後の話をよく読んだり見たりしますが、本当に同じことでずっと昔から私たちは人を分けてきたとよく思います。
歴史は繰り返すとはいうけれど、これほど進歩もなく、同じことをグルグルと愚かにもよくするなと思うのです。
都合が悪くなると敵を作り排除して、それを扇動して、痛め付ける。
そこにいるのはいつも、権力者の反対にいる人々です。
弱いと言われる、低所得者、外国人、病気や障がいをもつ人、女性、こども、性的少数者です。
けれど、そういう弱い立場(権力者からして)の人への対応を見ると、その国の本質が分かると言います。
美しい国も、おもてなしも、びっくりな現状はすぐそこにはあります。
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反面教師を忘れない
私たちは知らず知らずの内に、変わらないことを選択しています。
変われないこと、諦めること、どうにもならないこと、と信じて、苦しいはずの現状を維持する方に積極的に動いているのです。
とっても皮肉ですね。
それは誰かにとっては、絶望の道。
けれど、とりあえず自分の今は大丈夫だから、と。
選択は、できるもの。
何もないところから今まで紡いでくれた多くの先輩がいて選挙権を手にしています。
他国を見てもそれが当たり前ではないことは、今は割りと容易に分かります。
翻って、そんな危険とは無関係に思えて、いつ奪われるかもなんて思わないのは、たまたま今も運が良いだけかもしれない。
絶対なんてないのですから。
そんなことが起きないようにするには、やはり行使しなければなりません。
最悪を避けなければならない。
世界大戦を例にするまでもなく、闘い続けなければいけないと、民主主義の脆さを、私たちは近年のアメリカで嫌というほど見たはずです。
問題を矮小化して、人々を対立させ、分断させ、自分達がいかに権力の元に留まるかという保身のショー、分かりやすさでごまかす大衆迎合のポピュリズムは何も新しい形式ではありませんでした。
歴史で何度も何度も出題されてきたはずの問いだったのです。
けれど、私たちはまたそこで足をとられ、世界が振り回されました。
あれこそナイトメアではすまない。
一度分断された心は、そう易々と戻らないから。
簡単に歴史は忘れるけれど、嫌悪は残り続けてしまう。
なんか嫌、あいつらは違う、おかしい、とずっと禍根を残してしまう。
差別や分断の根が、関係ないはずの世代に受け継がれてしまうのは、こういった負の空気が残るからでしょう。
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投票しようが言えるまで
投票をしようという動画が話題になっていましたが、ただこれを言うだけにどれだけ時間がかかっているんだろう…と呆然としてしまいました。
芸能人だから、事務所の関係でスポンサーの問題もあるでしょうが、それだけじゃない。
嬉しい動きではありますが、これだから政治の話も普通にできないんだなと改めて感じてしまいました。
いかに話をしてこなかったのか、いかに一部の人だけに政治を動かさせていたのか…ということにゾッとする思いでもあります。
すでに議席予測などというものが、まるでそうなるという未来図の様に出回っています。
これ、本当に誰のためだろうと思うのですが、私のいる選挙区もひどい有様が書かれていました。
これ、バンドワゴン効果でこれならこっちに入れとくかと思わせたり、無理だなと思わせて棄権する人を作るだけで有害でしかないと思います。
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3.5%の底力
けれど、それでもそれでも、投票に行きます。
それは、投票率、得票率がとても低いからです。
先日読んだ、斎藤幸平さんの人新世の「資本論」 に『3.5%』という言葉が印象深くありました。
それは、たった3.5%ほどの市民が立ち上がると、非暴力的手段で社会を変えるのだという研究の数値です。
たった一人から始まった社会運動が大きくうねりを伴って世界を席巻することは、近年ではグレタ・トゥーンベリさんの話でも明らかです。
小さな数に思えて、それが少しずつ広がっていく。
無視できない声になる。
必要なのは、たった少しの声だったりするのです。
大多数の人が応援したから当選するんじゃない。
逆なのです。少なくても、当選する。
言葉は不思議で、優勢なら仕方ない、私の意見が異端なのだと諦めてしまう。
選挙に行く人が少ないほど、少ない数で当選してしまう人が増えてしまいます。
少数のための少数による政治に。
寝た子を起こすな、無党派層は寝ていろと言われる理由です。
だから、どんなに劣勢の人に投票しようと考えていても、まぁいいかと放棄しないで入れようというお誘いです。
主権者、私たち。を思い出すために。
生きていますよ、ここにと伝えるために。
政治家や官僚たちに、知らせるために。
投票しましょ。本当に。
未来のために。今を生きるために。