しんどさに敏感になること
先日よりコロナでずっと暗いは暗いのですが、良いのか悪いのかそんな暗さに麻痺するようになっていたら、さらに暗いニュースが立て続けにありましたね。
自殺報道というのは、本当に誰も得をしないと思います。
隠すというのは違うけれど、それをネタとして消費するのはもうやめてほしいと毎回思います。
人間は、興味本位で見てしまったり探してしまったりしますが、自分から受け取っているようでいて、流れてくるものにあまりにも無防備だったりします。
その時は意識しなくても、ネットが普及してからはより傷ついたり、悲しかったり、モヤモヤしたり、無駄に傷がどんどんつけあっているように思います。
私が受けたこういった報道のダメージは、昔見たネットニュースにさかのぼるのですが、その時ものすごく自分に影響してしまったことから、とても意識してできるだけ避けるようにしています。
あまりにもそういうものに触れていると自分が壊れるのは分かっているので。
ですが、その時から時代は進み、どんどんそういったニュースが増えるようになりました。
学ぶことなく、ただ間を埋めるように消費されるネタが大量に出ては、すぐに忘れられるようになりました。
止まっていると追い抜かされて、古くなって、意味がなくなるようになりました。
考えない、気に留めない、のが流儀というがごとくに流れていますが、そこで実は徐々に摩耗して、傷ついているのではないかと思うのです。
でもそんなことはなかなか口に出せない。けれど確実に穴は開いたまま。
今の時代はそんな感じではないかと想像します。
そして、私自身、気を付けているはずだったのに、こういった報道に図らずも直面してしまい、かなりダメージをまた負ってしまいました。
その動揺がようやく少々おさまった先日、あるラジオ番組を聞きました。
それが、なんだかとてもシェアしたい!と思ったのでここに書いています。
(見直した今、またしても何が言いたいんだか…なダラダラ具合ですが…)
最近、ラジオを聞いてます。
でも、生ではなくみんな録音したやつ。
これなら、その時その瞬間にという、付き合わせられる感じがない。
なぜかとても苦手なんです。
ドラマなどでも生で観るのとかは昔からですが、最近のインスタやYouTubeなどの生配信とかは特に、関心あるんでしょ?じゃあ見てよと言われてるようで、あの縛られてる感じがとても苦手。
そんなことで、とりあえずみんなポッドキャストやラジオアプリなどで録音やダウンロード分を聴いてます。
で、たまりがちなのでやや焦りながら倍速アプリなども使いつつ、遅れて聴いてます。
昔から、ラジオをあえて聴いてる人ってすごいなみたいな気持ちがあって、でもインターネットラジオの前は、ラジオの電波の家ということもあり、また先の付き合わせられる感もあり、テレビばかりで聞く機会がほぼありませんでした。
落ち着いてる趣味というか、そういうイメージで。
でも、音がしんどいことが増えてきて、大好きな音楽もなかなか聴けないことも多くて、またテレビ自体も同じような理由と中身もしんどくて観れなかったり、頭に入らなかったり…。
最近はドラマを観るのも割りと一苦労で、でも観たいし、気になるし、ドキュメンタリーなども観た方が良さそうなんて思う(こういう誰に言われたか分からないべき思考と早くお別れしたい…。)と全然消せず、HDDがぱんぱんです…。
それに、最近特に取捨選択が難しいと感じることも多くて、決められないことも、しんどいです。
そんなとこで、散歩をし始めたこともあって、その間に耳栓をするだけではあまり軽減できない(安全性のためにも、鼓膜がボワーッとしてしまうことを避けるためにも完全に耳は塞いでない)ので、密閉式のヘッドフォンかイヤホンで音楽を聴いていたのですが、それがノイズにしか聴こえないことも多くて、ラジオの音声に切り替えたら、なんだか普通に聴けたので、それ以来音楽ではなくて、散歩のお伴はラジオになりました。
それでも、ラジオアプリなどを入れるもなかなか使いきれなかったのと、radikoの位置情報いつもとるぞ!という要求に抵抗していたので(^^;)ラジオアプリではなくて、番組が放送後に配信してた特集などの一部の音声を聴いていました。
番組丸ごとだと聞き終えれる気がしなかったし。
スマートニュースのチャンネルから知ったというのも、もともと時事問題には関心があったものの、知らなきゃわからなきゃという強迫観念の強い私らしいなと我ながら思います。
そのチャンネルのSession22という番組の『音声配信』という文字が気になり、聴いてみた次第です。
ページごとに音声が貼り付けられていて、YouTubeなどに遷移することなく、そのページで聞くことができます。
それを毎回そこで聞くのは、何だか無理なので、とりあえずPocketというアプリで保存をしておいて、散歩をしながら少しずつ聞いていました。
大体6月くらいからですが、先月末にその番組も編成でSessionという名前に変わっています。
先月までは、ポッドキャストの配信はしてなかったのですが(以前はしていたようです)、名前が変更になって以降、またポッドキャストでも聞くことができるようです。
長さは10分くらいのものから1時間くらいのものまで様々です。
他の番組も少し聞いたりと、すっかりラジオ聴きになった(とっても初心者ですが)ので、チャンネルの音声配信だけでは使いにくくなって、本編を聞いてみたいと思い、最近は番組を録音することにしています。それもたまっているのですが…。
そこで聞いたある日のがとても心に響いたというか、ちょうど自分にぴったんこ状態になって、ここに書こうと思いました。
タイトルもあって、これは苦しいかな…と本当にビクビクで聴いたのですが、なんとか私は大丈夫でした。
でも、苦しくなる人はいると思いますので、お聴きになる方は是非無理をなさらずに。
あと、聴きたいけれどしんどいという方は、あれば倍速アプリなどで(私はAndroidでAudipoというアプリを使っています)早送りしたりなどして、苦しいと思うところを飛ばしながら聴くのもおすすめです。
扇情的なものでも、ただのニュースとしてその時だけ消費される様なものでも、ありません。
散々、詳細にたかるようにニュースにしておいて、辛い方は電話してなどと最後にちょっと形式だけ相談窓口を出してくるようなものでもありません。
そこにとても好感を持ちました。
そして、どこか少し救われたような気になりました。
苦しくなったら少しでも逃げる行動をとろうということで、気分転換でも何か別のことに目を向けることでも、人には??と思うようなことであっても、一瞬でもほんの少しでも、自分がほこっと( ̄▽ ̄)できるものを持っていることが大事という話でした。
上手くまとめられていないので(^^;)気になる方は、ぜひ放送などで。
その中に、文章を書くというものがありました。
そして、散歩などをすることというのも。
これ、まさに私今してると思いながら聴いていたのですが、それでとても合点がいったというか、自分にすとんと落ちたのです。
私は、苦しいのをよけるために書いたのかと、苦しいのを少しでもぼやかすために歩いているのだと。
Twitterでも、このブログでも、継続的に、うまく利用できるとは言えない中で、やめた方が良いなとか思ってもなかなかやめきれず、ダラダラと何か書くのも、生きるためというそれほど前向きなものではなく、きっと死なないためで、これ以上苦しくならないようにするためだったんだなとふと思ったのです。
Twitterは、読まずにつぶやくだけしてアプリを閉じることを続けています。
コロナでニュースなどにどんどん疲れるようになってからは余計に。
読まなきゃもなく、ただ言いっぱなしで終わっています。
自分ではそれが、うまくいっていると思うのですが、しばらく休みと言ったら、黙る方が良いなとも思うというか、ちびちび言うのは格好が悪い(^^ゞとは思うのですが、なんでかやめ切れません。
けれど、こうして苦しさを逃していたのかなと思うと、良かったのかなとも思うようになりました。
生きるため、死なないため、何とか苦しみをぼやかして、何とか明日にまで辿り着くため。
なんか、それでいいよと言ってもらえたようで、嬉しかった。
そして、それを知らずにしていた自分の行動にも少し驚きました。
書いて、だらだらつぶやいて、歩いて、をこれからもしていくのだと思います。
頑張れなくて、しっかりもできなくて、悲しくなる日々ですが、そんなことを思ったラジオでした。
ポッドキャストでも、アプリのラジオクラウド(私も最近使い始めましたが、会員登録が必要ですが、必要事項はかなり少なめ。TBS以外の局もたくさんあり、番組をダウンロードができて便利)でも、上記の番組のページについた音声でも、聴くことができます。
今回は文字起こしが少し少なめで、書かれている部分の話ばかりではなく、私がいいなと感じた部分は、文字になった以外のことが中心でした。
お使いのポッドキャストアプリなどで、TBSや荻上チキなどと検索して番組Sessionのエピソードから9月29日放送分からでも聞けますし、お持ちでない方はダウンロード無しでこちらからも聞けます↓
【特集】「自殺を減らすために何ができるのか」松本俊彦×高尾美穂×荻上 - Podcast Addict
いろんな対処法、これわりとしんどさに効くなとか、これはあんまりだなとか、いろんな手段を持っているといいみたいです。
ゆるゆると、この先も何らかの対処ができるといいなと思います。
しんどいニュースから離れる、ニュースなどでも全部受け入れなくていいよと思いながら、うまく付き合いたいな…。
ばたりと倒れても、どうにか生きれるように。
最近HSP、敏感すぎる人というのが話題になっていますね。
数年前から海外でそんな話題や書籍があると知っていたのですが、これ私だと思ったのを覚えています。
それが、日本にも入ってきて話題となり、色んな所で取り上げられたことで、有名人がコメントしているみたいですね。
で、それについて、とても嫌みな言い方で『敏感になりたい人』という記事があるらしいというのも知りました。(読んでませんが)
それがあまりにも有名になることで、曲解されることや良い様にかいつままれることは、違うよというのは分かりますが、結局甘えてるとか、また言ってるとか、かまってちゃんだとか、卑しめるようにしかこの話題も持って行かれないのかと思うのが悲しいです。
どれくらいそんな風に言って、色んな人の苦しさを押さえつけてきたのかと、またか…と。
同調圧力というか、人の心の内にまで入り込んで勝手に決めつけるのは、もう昔からずっと同じですよね、。
それどころか、身近にいない人までも、勝手に定義したり、より小さな型にはめ込もうとする風潮はどんどん強くなっている気がします。
本当に生きにくい国です。
そういう苦しさを分かってくれたのかと、はじめこのHSPという言葉に出会って思ったので、余計にまた周回してしまったなと思っています。
このHSP、子供の場合にはHSCというらしく、それに苦しんでいる子供たちは本当にたくさんいると思います。
それを訳知り顔で、あぁまたかと勝手に決めつける大人が増えないことを願ってやみません。
Eテレのバリバラで『敏感くんのゆううつ ~HSCの子どもたち~』というタイトルで、放送されていましたが、あの放送を見て、分かりすぎて苦しくなるくらいでした。
そして、こういう番組にもっと早く出会いたかったと切に思いました。
NHK バリバラ | 敏感くんのゆううつ ~HSCの子どもたち~
そこで出てくる男の子がいるのですが、とても自分のことをはっきり理解していて、それを家族にちゃんと自分の言葉で伝えられていて、本当にすごいんです。
私は子供の時も、大人になった今でさえもできないので(^^;)本当に尊敬します。
その続編
も放送されていましたが、彼だけでなく自分のしんどさに敏感になることは、悪いことばかりではないなと感じるこの頃です。
それは自分を守ることだから。
できるだけ危機回避できた自分を自分で褒めてあげてもいいことかもしれません。