なまけものーと。

なまけもので、ダメダメな私が生きていくために、つらつらと綴るブログです。今のところ、ただただ生きているだけです。※本ブログはアフィリエイトを利用しています。

五輪はやっぱりどうしても観れない

オリンピック開催が強行されて、もう数週間経ちました。

もうすぐ閉幕だそうです。

 

本当に分かりきっていたことではありますが、最近さらに感染者数が急増しています。

けれど緊急事態なんてなかったかのような人手…人流は減ったなんて言ってた人は別次元からの見た様子でしょうか。

 

最低限で折り合いをつけた(IOCとスポンサーとがかな?)無観客での開催となったことで、お祭り騒ぎ(外国から来たメディアの一部はあるようですが、これも以前から対策がぬけぬけだと言われていましたね…)をしているということではないはずなのに、五輪はいいけど飲食店はだめ、という二重の理論を使っているからなのか、人手はほぼコロナ前に戻ったようです。

 

 

そんな様子は、やや『コロナ?そんなこともあるね』と思いながらも、普通に移動して暮らしている感がします。

ただマスクを着けているという新しい日常を取り入れただけで。

 

そんなことですから、変異株と言われる感染力の強いウイルスに変わったことがさらに拍車をかけて、感染者数は増える一方です。

 

唯一の解決策とばかりに宣伝されていたワクチンも全然行き渡らないまま、結局オリンピックは始まりました。

 

 

『選手たちは悪くない』、『始まったんだから応援しよう』などなど。

多くの方は、モヤモヤしながらもオリンピックが開催されたことでそれを受け入れだしたというのが、現状ではないかなと思います。

 

厳しい顔で感染状況を語っていても、さて次は!と人が変わったようにオリンピックの話題をするニュース番組の様に、どこを見ても実はお祭りをしています!と脳に叩き込むかの様に流れる一日中やっている特集番組の様に。

 

何だか分からぬまま流されて、受け入れて、あれ?これまでのゴタゴタは何だっけ??と夢でも見ているかのような気持ちになって。

 

ですが、私は微塵もオリンピックが観られていません。

応援しようという気にもなれず、応援しなきゃというのもおかしいなという思いもして。

目に入れること、耳に入れることが、辛いです。

 

オーバーだと言われるかもしれませんが、そんな簡単に切り替えられないし、なかったことにもできない。

通り過ぎれないのです。

 

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先日も帰国を拒否した選手がいましたが、帰国拒否すなわち難民を希望した人がすでに3名。

これだけでも世界の今の異常さが分かる気がします。

けれど、そこは日本。難民申請が針に糸を通す方がたやすいほど通らない国です。

入管の実態も重ねて思うと、他の国で開催していて、あるいはほかの状況下でやはり違う国で声を上げていたならば、難民として受け入れてくれたかもしれないなと思っていました。

 

香港にしても、ミャンマーにしても、そしてベラルーシにしても、人として生きるということが簡単ではない状況の人々が多くいます。

 

そしてこのコロナ禍。ただでさえ困窮していた人々や政治などの情勢がもっと困窮していると捉えることは、容易い事でしょう。

さらに、はじめから言われていたように、ワクチンは本当に一部の国にしか流通していないという実態もあります。

 

この状況があまりにも、みんなが信じていれば救われる!みたいな空気が日本にあるように思えてなりません。

死角にいて見てないだけで、本当はディストピアにいるんじゃないかと思えるのです。

 

戦時中に日本が五輪に参加しないことがありましたが、その時には欧米でも大変な状況下があったわけですが、強行されました。

もちろん今とは比べ物にならない規模であり、商業的でもないでしょうし、参加国や人口も少ないものですが。

 

その時、その中で大会が行われるということに、参加国や開催国の人々は裏切られたような、見捨てられたような思いをしたのではないか…などと思いがよぎります。

 

 

日本でも、経済的にも精神的にも追い詰めらている人は大勢います。

感染して亡くなった方も、闘病している方も、またご遺族の方々も、そしてそれを支えている人たちも。

その人たちに目を向けず、復興がいつのまにやら人類がコロナに勝った証という文言にすげ替えられたオリンピック

 

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私たちは人類ではないのかと、医療現場で奮闘している人々をあざ笑うようなやり口に、これほどまでかとやはり毎日絶望感をおぼえずにいられません。

 

取ってつけたように『エッセンシャルワーカー』とたたえていた言葉は、今年になりほとんど聞かれなくなりました。

 

病床数は少し増えても、そこで働く人という母数は、ほぼ何も変わっていないのに。

何かが刷新されたかのように、今までとは違うという体で動いていることに、自分だけ悪夢を見ているのかという思いになります。

 

医療機関に限らず、お家で介護している人、子育てしている人、生活の基盤を支えてくれているすべての人々に、この今でどうして顔向けできるのかと思うのです。

 

今までも、開催中に紛争地があり、名ばかりの停戦期間があり、形だけの希望を押し付けられた国や地域に住む人々は大勢いたと思います。

 

そんな立場にいたら、良いことをしているんだと特に欧州の特権的な目線や慣習で作られたものを、目にすることもできず、もちろん楽しんだりすることもできずにいたのかと思うと、本当にどれほどの気持ちだったのだろうか…とこの今思わざるをえません。

 

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そんなことを考えると、この一部の企業の利益のため、そして一部の人々の名誉のために行われる大会をどうして、受け止めなければならないのかと思うのです。

 

コカ・コーラについてはこんなこともあり、かなり唖然としました。↓

結局向いている先は国民・市民ではないなと。

スポンサーとはそういうものというのは、こんな莫大な税金をかけた『人類のための大会』でなら通用しないと思います。ただの圧力と忖度。

飲み物の量は制限、スポンサー企業の商品推奨… ドタバタ続きのカシマスタジアム五輪学校観戦、大丈夫? | 子育て世代がつながる - 東京すくすく

 

ごくごく一部の人しか、観戦する状況にないのではないか、応援や楽しみにすることなど優越した者から見た理想ではないかと。

 

 

応援せねばならないというのにも違和感があります。

マイナーなスポーツもありますが、多くの競技は世界大会が他にも開かれていて、今までのオリンピックにしかないと言われた有難さはかなり薄まっているように思います。

 

また、プロスポーツが中心となってしまい、アマチュアのための大会ではもはやなくなってしまった。それにより結果、スポンサーがついたより稼げる選手だけが出場したり、メダルを手にすることになりました。

 

ここでも地域や国の格差がついてしまい、オリンピック憲章の平等がかすんでしまっています。

設備が整わない、環境が十分でない、選手はずっと不利なままです。

 

そして特に日本はメダル至上主義で、個数ばかりを追ってドラマに仕立て上げます。

本当に一人一人に敬意を払うなら、順位やメダルの色ばかりを問わないはずではないでしょうか。

ナチス時代につくられた、国別の入場やメダルの個数を競うそれも、国威発揚を狙ったもので、それをなんだかんだと言い訳しながら、嬉々として受け継いでいるだけなのに。

 

大会が開催されていることに意味があるというのならば、いつもはスポットライトが当たらない競技を中心にどんどん報道すればよいのに、それもほとんどしない。

視聴率もかせげないから。結局プロのための大会でしかない。

 

危惧していたパラリンピックの時期に中止がささやかれていますが、パラリンピックだって本当にここ最近ようやく報道が増えましたが、大会前後だけに取り上げるのでは全然足りない。

生涯獲得する金額もオリンピアンとは比較にならない現状があります。

こういう競技にこそフォーカスししなければなりません。

スポーツの力や意義を神聖化していますが、それならこういうアマチュアへの目線が必要です。

 

また、性差別の問題も残ったまま。

その都度恣意的に運用される大会の基準とやらが、自身の憲章にいかに矛盾しているかというが、滑稽な芝居を見ているような気持ちにさせます。

 

 

選手は責めを負うはずでは元来ないけれども、結果として出場が特権や優遇された、その人たちだけのために色んなものが犠牲にされたという事実になってしまうというのは、大変悲しいことだなと思います。

 

責任という意味ではないと私は思いますが、こんな状況下で特別なことをするという事実は変わらず、議論をもっとしてから臨むべきではなかったろうかと思います。

少なくともそのボールは出場する選手の元にあったと思います。

だからせめて、選手の方々には発言をしてほしいなと思いましたが、こんな世の中(特に日本)では言えないのでしょうね…残念に思います。

 

 

そんな連日のように続く、テレビや新聞での報道はもう目をそらしてもそらしても目に付くような状況で、今テレビではニュースとは名ばかりで呆れるほど一日中(本当にテレビ欄が全部埋まっていることもありますね)五輪関連をしています。

世の中では報道することが何も起こって無いかのような錯覚にまでなります。

 

よく考えれば、メディアはスポンサーです。

すぐにアメリカのテレビ局が~という話になりますが、それを買って流す選択をしているのは日本の企業ですから。

 

テレビなどでも、バラエティでもなんでも視聴者に向けて放送しているから、そういうニーズを捉えているものと考えがちですが、結局は広告主の顔色が一番大事。

 

最近コンプラが厳しくて~なんていうけれど、言い訳に過ぎないなと感じます。

作らせる人、そして作る人の感覚がもう何十年も変わらないから、差別発言も、女性蔑視も、全くなくならない。

それを時代のせいで済まそうと言うのだから、頭を抱えるしかありません。

 

見向きもしなかった、無視してきた存在にようやく目を向けだしたということに過ぎないのに、騒いでいるとか、まるで声を上げた方が悪いように言ってしまう。

 

インクルーシブとか多様性とか、平等とか、平和とか、言葉ばかりがかすめることにうんざりして、具合が本当に悪くなってしまいます。

 

 

何を見せられているのだろう。

そんな思いがずっと頭を回っています。

 

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見たら苦しい。自分がすごく多くの人を傷つけている気持ちになるから。

色んな人の命や権利を、握りつぶしているような気持ちになります。

 

そしてハタと見渡して、先日真っ暗な気持ちに引きずり込まれました。

無邪気に観戦したり、感動を押し付けるテレビに飲み込まれたり、そうしている内に、これは何もなかったことになるのかと。

 

政府の思惑通り、閉幕してすぐの選挙で『見ましたよね?結果良かったでしょ?やいやい言ったけど開催できたんですから。メダルもたくさん獲ったし』というシナリオだけになるのかと。

 

またかと。

 

何でも許して、何でも流して、なかったことにして、結局変わらないねなんて言っている。また今までを繰り返すのかと。

 

そんな気持ちになりました。

 

で、そんな時にたまたま読んだモーリー・ロバートソンさんの連載が、自分と重なりました。

wpb.shueisha.co.jp

自分はおかしいのかと、これだけ頑なに思うのは変なのかと思っていたのです。

でも、許さず、忘れず、流れずにいても良いのかと思えました。

それがいつものように少数な側になったとしても。

 

忘れられないし、スルー出来ないので。いつも。

そのまま、とどまろうと思えました。

たとえノリが悪かろうと、たとえ楽しめなかろうと(もう今後五輪は楽しめないと思いますが)。

 

ダラダラと書きましたが、ただそういうことです。

スルーしない!そんな自分を嫌にならないぞ宣言です。

五輪は観れないし、目に入れたくないし、良かった記憶としても残したくない。

ちゃんと経緯を覚えていたい。今はそう思っています。